『梅の実の味わい』郭笑芸監督 質疑応答

山形映画祭2005レポート
『梅の実の味わい』
郭笑芸(グオー・シャオウィン)監督質疑応答
※DDSでの『梅の実の味わい』の上映は9月24日(日)18:45からございます。
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英題:A Taste of Plum 原題:梅子的滋味
台湾/2004/北京語、台湾語、客家語/カラー/ビデオ/142分

司会:吉井孝史  通訳:遠藤央子

観客ⅰ 昨日の『部落の声』とみなさんが並んでいるのを見ました。ひとつひとつはすごく地味な話なのですが、とても身近に感じられました。人の声とか顔がすごく見えて、これだけ若い方が、私と同じくらいだと思うのですが、こういったことにみんなで取り組んでいるということに感激をしましたし、それを見られたことも本当によかったと思います。これからも頑張ってください。また見たいと思います。

観客ⅱ 個人的なことなんですが、私は阪神大震災を経験していまして、阪神大震災の復興など自分に重ね合わせながら見ていたんですけど、そのなかで近所の住人同士仲良かった人たちが、お互いの取り分とかでだんだん仲間割れしたりとかで仲が悪くなって来て、自分の利益を追求したりとかしながらも、結局は行き着くところは行き着いて、収まってしまうということは共通しているなと思う部分と、台湾の人たちの感覚で「これは日本にはないな」と思うところがあったり、そういうことを確認しながら見ました。

観客ⅲ 非常にいい映画でした。監督さんは人に分かってもらえないんじゃないかと心配していたのかもしれないですけど、この映画はとてもパワフルで、見ている人の心にちゃんと届いていると思います。僕も彼女と同じように阪神大震災を経験しました。震災をきっかけに神戸の真ん中をつっきって救援物資を届けに行ったことがあります。すごい惨状でした。今日見た映像の100分の1くらいの規模のように見えるのですが、それでも都市で起こったものと山で起こったのは全然違っていて、同じ地震ですけど、あれが神戸で起こっていたらどないなことになっとんたんだろうと思ったんですよ。アメリカの人に神戸の話をしたら「よくあれで暴動が起こらなかったね。アメリカだったらぜったいそうなっていたはずだ」って言われたんですね。それが日本では起こらなかった。そういうことが国際的には高い評価を得たことになったみたいなんですけど。台湾でも同じように、大規模な地震でしたし、少数の人が住む地域ではあったかもしれないけど、人々はなんとか話し合いで平和的に解決しようとしているところに心が打たれました。台湾の人も日本の感覚と近いんだなという共通した勇気をもらいました。

観客ⅳ いままでの作品でいちばん好きな作品です。どういうところにいちばん気をつけたのか、教えていただけたらと思います。

観客ⅴ 私はフリーで番組制作の仕事をしているのですが、作品を見せていただいていろんな力をもらいました。すごいなと思うのはふたつあって。ひとつは続けるということです。私は毎週毎週番組を作りながらなかなかそれができなくて。もうひとつは取材対象との距離感です。近づきすぎるのでもなくって、相手を美化するのでもなくって、私が見る時に考えたり感じたりすることができました。これから撮影に入るぞという時に、これだけはということがあったら教えてください。

観客ⅵ とてもスケールが大きく、感動しました。特に地震から始まって人の人生、社会のあり方が見えてきました。あと音楽の使い方がとてもよくて、しびれました。見ていて思ったのは、日本はわりと復興が早くできるのですね。どうしてあんなに早くぽんぽんお金が出て来て、復興しちゃっているのかなって。どこからお金が出てくるのかな、日本って変だなと逆に思いました。きっと未来のツケにして、今いいかっこうだけしているのかなと思いました。

郭笑芸 みなさんに感動していただいて、嬉しく思います。ありがとうございました。撮影から編集まで4年かけましたが、非常につらい時間でした。まずつらかったことのひとつとして、被災地のみなさんと共にあるわけですから、みんなと同じように災害がもたらした恐怖感とか悲しみを克服するということがありました。ふたつめは撮影の間に自分自身の気持ちや心のありようの変化がありました。作品でご覧いただいたように九分二山の地区は山崩れにあい、山の景観が崩れた地区です。そのような状況は非常にみるにしのびないものなのですが、たった3カ月でここの住民は山の景観が変化したことを利用して商売を始めたんです。はじめはそういったことを受け入れることができなかったのですが、ある時期を過ぎて彼らのやり方を認められることができるようになりました。このような自分の気持ちの変化は作品には織り込んでいません。被災者の人々を中心に据え、客観的にものごとを捉えました。一歩退いて自分の心情を入れないことは、撮影の間でもっともつらいことでした。

 この作品を日本のみなさんが理解できないのではと心配したということではありません。山形に来る前に早稲田大学でも上映会をし、その時に地理的な説明はしましたがこちらの土地の背景は説明しませんでした。台湾はそれぞれの地区の特色が非常に大きいところです。理解できないということより、みなさんが混乱してしまうということを心配しました。けれどもこうしてみなさんの話を聞いて、それは取り越し苦労だったということが今日分かって嬉しいです。

 なぜ、この主題を選んだのかということにもつながりますが、こちらにも阪神淡路大震災を経験された方が何人かいらっしゃいますが、実際に被災地に入って人々が災害にあった時の気持ちの強さ、努力していく姿、前向きに生きていく姿を捉えたいと思いました。

 こちらの山の生活状況は少し異なっていて、再建の方法にしても前向きなのです。頼るのは自分というやり方が印象に残ります。ひじょうに積極的で政府の救援よりも早い行動でした。私にとってはこのような方法は驚くべきものだったのですが、彼らが自分なりのやり方でやっていくことを、都会に住んでいる自分の価値観で判断してはいけないと考えました。この村の人々と接してからのはじめの半年、私は彼らのことが受け入れがたく好きになれませんでした。たとえば観光地にして車を走らせたり、公共性を考えない彼らのやり方に抵抗を覚えました。しかし、ある時期を過ぎてから彼らのやり方、彼らには非常に心の温かいところ優しいところがあることが分かったのです。人というのは非常に多面的なものだと彼らから学びました。それが見ていただいたみなさまにも伝われば嬉しいと思います。

観客ⅶ 私は大陸から来ました。撮る対象となった相手にどうやってたどり着いたのか? 撮影が対象に与えた影響はあったのでしょうか? あったならどういったことがあったのですか?

郭笑芸 なぜこの場所を選んだかというと、私は初めてこの地に立った時に見た光景はまるで戦場のようでした。2日目の時に犠牲者の方の遺体を発掘する場にいあわせた時の印象はとても強いものでした。だいたい6、7メートルの深さをみんなで掘って、亡くなった方のいたましい姿を目の当たりにしてしまったのです。その時に感じたことは人の小ささ、同時に天災の大きさです。わずか数秒の揺れでこのように人が亡くなってしまう。人の存在とはなんと小さいだろうということです。家族を失った人たちの心の再建、このような悲惨な状況からいかに再建がなされるのかということを撮影したいと思い、こちらの場所を選びました。『生命(いのち)』の呉乙峰監督も同じ場所にいて、ふたりで話し合い、呉乙峰監督はなくなった家族と残された家族の心の部分を、私は生き残った村の人たちの再建を撮ることにしました。

 なぜ村人たちがカメラの前で自然な姿でいてくれたのかということですが、10日後にこちらの村に入ってほぼ毎日山に登り彼らと過ごしました。5年経っていましたからその間に気持ちが通い合い友だちになれたということだと思います。これはうまく説明できないことですが、こういった大きな災害や、悲しいことが起こった後は人は他者を受け入れやすいのかもしれません。地震が起きて家族がなくなって悲しみを話すだけでも心が癒される。そういう状態だったので彼らは私を受け入れてくれました。あまりにも毎日カメラを設置し、おしゃべりを撮影していましたので、例えばお金をかきだして数えるという彼らの生活の部分までさらけだしてくれるようになったのです。

(2005年10月10日 山形市内映画館ミューズ2にて)

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主催◎シネマトリックス
共催◎山形国際ドキュメンタリー映画祭実行委員会、アテネ・フランセ文化センター、映画美学校、ポレポレ東中野
協力◎東京国立近代美術館フィルムセンター、大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)、東北芸術工科大学東北文化研究センター

フィルム提供:
アテネ・フランセ文化センター、アリイケシンジゲート+大きい木、岩波映像、映画「戦後在日五○年史」製作委員会、川口肇、共同映画社、シグロ、疾走プロダクション、自由工房、白石洋子、鈴木志郎康、瀬戸口未来、高嶺剛、W-TV OFFICE、陳凱欣、朝鮮総聯映画製作所、全州国際映画祭、テレビマンユニオン、直井里予、日本映画新社、朴壽南、ビデオアートセンター東京、プラネット映画資料図書館、北星、松川八洲雄、松本俊夫、もう一度福祉を考え直す会・磯田充子、ヤェール・パリッシュ、山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー