1931年、京都西陣に生まれる。大学で仲間と8ミリ映画を作りはじめ、『南無』(59年)が監督第1作。大林宣彦、飯村隆彦らと8ミリを通じた交友、また記録映画の野田真吉、小川紳介、松本俊夫らとも親交を結ぶ。

◆60年の『石ッころ』が国際的に評価されてから本格的に映画と取り組む。日本の実験映画・個人映画の草分け的存在として、その後の映画青年たちに大きな影響を与え、『ひなのかげ』(65年)は、日本人としては初めてニューヨーク近代美術館所蔵となった。66年より滅びゆく蒸気機関車の記録映画を数多く撮り、71年には初の35ミリ作品『すばらしい蒸気機関車』を一般劇場で公開しヒットさせる。

また、京都を舞台に、極めて個人的な情念の模様を陰微に綴った『べんがら格子』(71年)、『餓鬼草紙』(73年)を連作。ATGで『本陣殺人事件』(75年)を発表。その後の横溝正史ブームの火付け役となる。また大映京都のスタッフを得たことから、個人的な映画づくりから大きく変貌。続く『金閣寺』(76年)で、伝統の技術と美意識、そして斬新性がさらなる境地を拓く。その後、『蔵の中』(81年)、『雪華葬刺し』(82年)など耽美的官能世界の色濃い作品を発表。86年の『魂遊び ほうこう』を撮って以来、沈黙。

本人は、映画界からの引退も決意しながら、京都の演劇グループからの熱い誘いで2003年『愛なくして』を発表。それは、実に16年ぶりの、そして72歳の監督の現在を描いたかつてない個人映画だった。