映画評

針と炎
港千尋(写真家)

 ポルトガル語が聞こえるとき、一瞬、葡萄の味が舌先にのぼる。日本語による古い表記のせいかもしれないし、旅先で飲んだポルト酒のおかげかもしれない。大西洋の潮風に乗って聞こえる言葉は、ちょっぴり甘酸っぱくて、どうしようもなく郷愁をそそるのだ。この映画をパリで見たときにも、最初は同じ感覚におそわれた。ヴァンダのささやくようなしゃがれ声が、そうさせたのだろう。でも時間が立つにつれ、口のなかの葡萄の味は、甘さよりも酸っぱさが増して、やがて舌が麻痺するほどに強くなった。わたしはリスボンやサルバドールの丘の上から眺める海が好きだが、そこにいては、けっして聞こえることのない声が、静かに語りかけてきたからである。

 舞台となるのはリスボンのスラム街。治安の悪いことで知られ、外国人はもちろんのこと、地元の人間も頻繁に訪れる地区ではない。映画は主人公となるヴァンダとその家族、さらに彼女を訪れる人々の日常を静かに記録したものである。ふつうに紹介すればこの数行で終わってしまうのだが、その「日常」はふつうではない。この映画に出てくる人間たちは、ほとんど例外なく、麻薬中毒にかかっている。おそらく薬を打つシーンが、最初から最後までこれだけ繰り返される映画は、映画史上なかったのではないだろうか。何らかのドラッグがほぼ10分おきに出てくる。注射器による注入だけではない。主人公のヴァンダは、ほぼ全編にわたり、アルミホイルを炙りながら化学物質を吸入する。どの登場人物も身体の動きがのろい。まるでおなかの中に鉛が入っているか、背中に石を背負わされているかのような疲労感が全身に漂っている。ヴァンダも部屋に置かれたベッドに横になり、ドラッグの吸収に余念がない。ヘロインに溺れている男たちとは違って、彼女だけは注射器を使わずにいるのだが、それでも時折ぜんそくのような激しい咳に襲われる。回復の兆候はどこにも見えないし、中毒から脱しようという努力もない。映画館の闇のなかで、口に含んだ常識という葡萄を、一粒一粒針で突き潰されてゆく気がする。異常なはずなのに、あまりに淡々としている、スラム街の生の日常である。

 ときおりヴァンダは野菜を売りに外に出る。

 「レタスはいらないかい?」

 ドラッグに浸る日々のなかで、唯一ヴァンダの“活動的”な姿が垣間見える時であるが、しかし肝心の野菜が売れたかどうかは示されない。家では母親との口論が絶えず、まるで悪態のオンパレードである。どん底ムひとことで言えばそうなるだろう。

 社会の余白におかれた人々の言葉を掬い上げる作品には、ボードレールからジャック・ロンドンにいたる文学の系譜がある。この作品の言葉に関して言えば、このスラム街には、大西洋の小さな島カボ・ヴェルデからの移民が多い。時折聞こえる訛りや音楽からもそれが伺えるが、しかし移民労働者の生活を描いているわけではない。かといって蔓延する麻薬中毒を告発するものでもない。スラム街がどこに位置するのかも示されないし、それがリスボンである必然性もないだろう。注射針の貸し借りをめぐる会話が聞こえる、世界中あらゆる都市に存在しているスラムのひとつとしか言えない。だからタイトル通り、この映画はヴァンダと彼女の部屋を往来する人々を見つめるだけのものなのだが、まさしくその点に、この映画の最大の不思議がある。

 どうやって見つめたのか。

 誰が見ても分かるように、ヴァンダの部屋は相当狭い。彼女の家も狭いし、男たちが注射を打ちに来るバラックも狭いし、それらが立ち並ぶ通りも異常に狭い。隠れる場所などどこにもない。その狭い場所で誰もが麻薬を打ちまくる。そんな所にビデオカメラを持った余所者がうろうろすることなど、ふつうはありえないのに、この映画では誰ひとりとして、カメラに注意を払おうとしない。無視というよりも、カメラもそれを持つ監督も存在していないかのようだ。カメラに視線を向けないというだけでなく、ふつうは隠されるべき行動が、すべて記録されている。ドストエフスキーがデジタルカメラをもって、徘徊していると言ったらいいだろうか。

 当然、カメラを持ち込むに先立って、制作者と被写体とのあいだの信頼関係がなければありえない話であり、長期間にわたる撮影を通して蓄積された映像には違いないのだが、それでもなお、どうやって見つめたのか、という問いが残る。ふつうなら、登場人物の気づかないところから覗き見をしているという感覚を与えるはずなのであるが、この映画にはそれがない。画面を支配する一人称的な視線、ポルノグラフィックな視線は、どこにもない。カメラを感じないかわりに、その場所に確実にいるという感覚がある。わたしはヴァンダの傍らにいて、彼女の独白を聞いている。そこに生まれるのはとても不思議な、<親密さ>の感覚である。

 わたしはいくつかのシーンを繰り返し見ながら、デジタルカメラで撮影されているにもかかわらず、この親密さの感覚が、どこか遠いところとつながっているという感想をもった。記憶のなかの糸を辿ってゆくと、いちばん近いところにあるのはオランダやフランドルの絵画だった。たとえばフェルメール。部屋の内部を照らし出す光や静物にできるやわらかい影にそれを感じたのかもしれない。スラム街のフェルメールムけっしてパンしないカメラは、貧しい者たちの生きる空間を、静物画のように計算された緻密さで捉えている。

 もちろんここにはフェルメールの絵に出てくるような家具も調度品も衣服も、映画には存在しない。テーブルにあるのは使用済みの注射針である。闇のなかに美しいロウソクの光があっても、それは麻薬を打つために点された炎である。『青いターバンの女』と『ヴァンダの部屋』のあいだにも共通点はない。フェルメールの空間が幸福のそれとすれば、ヴァンダの部屋はその逆である。だがそれでもなお、『ヴァンダの部屋』には、フェルメールに勝るとも劣らない強い親密さがある。それはおそらく、スクリーンのなかの人々が、フェルメールの描く人物と同じ感情をもっているように見えるからである。

 再開発の対象となったスラム街は取り壊しの真最中で、ブルドーザーとハンマーの音が無情に迫ってくる。男たちがかろうじて移る部屋には扉さえない。それなのに、ヴァンダたちは、子供の頃に遊んだことを想いながら、この町が好きだと言う。行き場所のない幼なじみが狭い部屋に来れば、いたいだけいていいんだよと迎え入れる。執拗な咳に悩まされる男が来れば、咳止めの薬を与え、きちんと飲むように諭す。天使だというわけではない。慈善的な心の入る隙間は、ここにはないだろう。もとより社会的なメッセージを発するために作られた映画でもない。

 そうではなく、わたしたちがヴァンダとその友人たちから受けとるのは、<いっしょにいること>のエッセンスではないかと思う。いっしょにいられるスペースは、非常に限られている。それは針と炎のあいだにある、ぎりぎりの距離と言い換えてもいい。どちらに転んでも、痛みを避けることはできない。そして彼らは、針と炎の両方に身を苛まれることによってしか、日々の苦痛を生き延びる術をもっていない。(わたしたちは真に倫理的な部屋に招かれている。)そのようなわずかな距離のあいだに展開する日常が、わたしたちに教える。

 かけがえのなさ。

 それは生きていることのかけがえのなさであり、そうして死ぬまで生きることでしか証明することのできない、ただひとつの感情である。それをやさしさと呼びたいが、わたしにはこの言葉を口にしたときにする味が、まだはっきりとは分からずにいる。

 




[提供・配給]シネマトリックス、シネヌーヴォ
[お問い合わせ : mail@cinematrix.jp]